どこを向いてもメトロノームの必要を説いています。私の答えはここでも違う。持っていた方が良い、しかし使わないように、これが答えです。

 

テンポを正しくとることは難しいから、メトロノームの力を借りてテンポ感を養う、これだけが使用する目的です。いざ使ってみるとたしかにうまく合わせられない。そこで「なるほど、自分のテンポは正しくない」と反省する。しかし本当でしょうか?

 

新宿駅から歩いて5分だ、と言ってみてください。4/4拍子で16分音符の連続とはこういうことです。これを言ってみるとき、テンポが正しいかどうか、と迷わずに正しいテンポで言えるでしょう?そうした自然な流れがテンポ感です。機械に合わせようとして躍起になったら合わないに決まっています。

 

アメリカからさる有名な教授が来日したとき、最初はメトロノームできっちり練習しなさい、そしてもちろんそれでは音楽になりませんから、少しずつ外していきなさい、とアドヴァイスしました。これはおかしい。どうやって外すのか?外す機械でもあるのでしょうか。外す作業は人間が自分の勘でするのなら、はじめから勘そのものを鍛えればよいではないですか。

 

そもそも、先に挙げたつまらない例でもお分かりのように、人には自然なテンポ感が備わっているといえる。それは必ずしも(というか決して)機械的なものではないのです。だから教授は、もちろんそれでは音楽になりませんから、と付け加えなければならなかった。彼は(音楽家ならば)なぜメトロノームに合わせた時には音楽にならないのかを深く考えるべきだったのです。

 

人間は機械のようにできない。また不完全なものである。そこは正しいのですが、テンポが正しいというのはどういうことなのか、を明察しないとこんな「迷信」もできあがります。

 

それに、聴き手もいったいメトロノームに合わせて聴くことができるでしょうか?繰り返しますが、正確さは必要ですが、あくまでそれは耳でとらえる正確さでなければいけません。画家が水平線を定規で描いたらどんなに味気なくなるか、とくと想像してください。

 

ではメトロノームは(ベートーヴェンがしたように)捨てたほうが良いのか。それもちょっと待った方が良いでしょう。たとえばある曲の望ましいテンポがなかなかつかめないとします。そのとき教える側は100とか120とかの数字を与え、習う側は自宅でそれをメトロノームで示せばよい。もちろんおよそのテンポを感じたら止めてから弾きます。このように消極的な活用法ならばあり得ます。自分を人間メトロノームに仕立て上げる愚を犯してはなりません。