この項は理屈を言われて困ったり、迷ったりしている人のために書きます。直接テクニックとの関連はありませんが、理屈を言われるとたじろぐのが人の常ですから、そうならないためにもざっと読んでください。

 

ハンマーの質量が一定である以上、ピアノ奏者がよく言うような「音色」なぞは無い。あるのは音の強さだけだ。つまりピアノの音はハンマーが弦を打つ際のスピードによって決定される。簡単に言えばこういうことです。

 

私たちピアノ弾きが多かれ少なかれ、また正しい、間違いを問わず努力している「タッチ」だの「音色」だの、一切は絵空事であり、実際は物理的な速さでしかない、と。

 

それに関してはまったく異を唱えることはできません。その通りです。柔らかい音のためにある弾き方をしたつもりでも、それはハンマーの速度が遅くなっただけのことだ、と言われたらどうしましょうか。

 

それに抵抗を感じますか?私はそうは思わない。そうではなくて、その望んだスピードを理屈屋はどうやって実現させるのか、と質問する。

 

重いものがゆっくりと弦を打つと思えば望んだ結果になり、軽いものが速く弦を打つつもりで弾けばやはり望んだ結果になる。つまり望んだスピードが得られる。

 

上記の例はたった二通りですが、当然あらゆる組み合わせがあります。その組み合わせから生じる「打鍵のスピード」を思っただけで生じさせることができる人間の能力を不思議だと思うだけで充分でしょう。

 

遠い将来、あらゆる人間の情動をスピードに変換できる装置ができるかもしれませんけれど、それ以前に私たちにはその能力が与えられていることを信じておけば、たじろぐ必要などどこにもないはずです。

 

たじろいでいないと思う人もいるでしょうが、それらの大半は知らぬ顔をしているだけだと思います。これは「の中で紹介した、「音楽界の迷信」で論じられていることとまったく同じことです。

 

ピアノを弾く人(あるいは音楽一般)たちは、理屈に心地悪さを覚えた場合に目を逸らせてはいけないと思います。理屈がほんとうにもっともならばそれに順じて自分を変えざるをえないし、そうでなければきちんと説明を付けられなければいけません。

 

殊に理科的な理屈に対して、一種の恐れを抱いている音楽家が多い。否定しながらもチラチラ科学の顔色をうかがう羽目になるのは例えばメトロノームへの信仰を見ても明らかです。

 

私たちがごく自然にピアノの音色といっているのは、様々な音の強さと、その組み合わせにすぎないと科学は教えます。けれど、それを音色という感じ方をする以上、ピアノにも音色があり、それは様々に変化するのだと思ってよいのです。それどころか、そう思わなければいけないのです。

 

ただ、そうであってもアフタータッチの地点に加速の頂点が来る必要があることだけは忘れてはいけないのです。