歌手が、あるいは管楽器奏者がPPを演奏しているところをよく観察してください。どれだけ大きなエネルギーが蓄えられているか。
静まり返った情景、押し止められた激情、胸にあふれる恍惚感等々、弱音は強い音よりも雄弁だと言えます。
歌手の見事にコントロールされた顔の筋肉を見ていると、この強く抑制されたものこそがヴィブラートの起源だとさえ言いたくなります。
PやPPはfよりも難しいし、労力がいるようです。体操競技の吊り輪で力技というのがありますね。体の動きを止めなければいけない、地味ですが難度の高い技です。ひねり技は次々に新しくなって、すぐに難度が下がるのに対し、この力技は変化しない。それと比較したくなります。
そのような弱音をピアノで出すのは、やはり同じような労力が要ります。私たちはいつの間にか「脱力」という言葉に翻弄されているようです。
脱力に翻弄された弊害については後ほど書きます。ここでは弱音を出すためには普段に倍した「蓄えられた力」が必要だと言っておくにとどめましょう。
もちろん身体が硬直してはいけません。重いものがゆっくりとした加速を伴ってアフタータッチをとらえる、そんな感覚です。(こうした感覚こそ言葉で説明することの限界を感じますが)その際の指先はほとんど鍵盤に触れただけですし、鍵盤が底板まで到達せずに、半ば浮いているのが目に見えることさえあります。
ピアノの技術について書いたサイトは山ほどありますけれど、フォルテの出し方への言及はたくさんあるが、ピアノに関しては、脱力すればできる、程度に脇に追いやられた感じです。
むしろこう言っておきたい。フォルテはピアノで溜めに溜められたエネルギーを解き放てばよいから、ピアノよりは楽なのだと。これは一般の生活感情とも合致しませんか?
もう少し具体的に言ってみましょう。誰かに腕を押さえてもらって下さい。その腕を(肩から)持ち上げます。どの位の重さかは、あなたが持ち上げることができる範囲で構いません。
そしてピアノを出してみることです。文章だけで伝わるか、ちょっと心許ないですが、そうして出したピアノ、ピアニッシモは音楽的です。もちろん弾きにくいですが、それを自然にできるようになるのもテクニックです。
(続く)