はな私たちの五感はおおよそのところは科学で説明が付きます。でも説明が付いたところで何の意味もないことでもあります。

 

たとえば冬の後の20度と夏の後の20度は同じ気温にもかかわらず、服装を変える。理由はだれでも説明できる。説明できたところで意味がないのもこれまた誰でも思う。

 

言えることは五感には錯覚というべきものが付いて回ることでしょう。それを上手に利用せずに絵画も音楽も料理もなりたちません。

 

五感の錯覚といっても納得いかない人のためにいくつか例を挙げておきましょう。

 

説明に適するのは目ですから、ここでラファエロのマドンナを実例として挙げておきます。ここでどんなデフォルメが行われているか。断っておきたいのは、わたしがここで言うのは絵画の鑑賞ではないということです。そのような能力はありませんから。

 

 

この絵は誰がどう見てもリアルに描かれたものですね。うつくしい女性と無邪気な子供です。

 

でもマドンナの手を見てください。いくらなんでも長すぎませんか。左手もなんだかおかしな形ではないですか?左の腕の衣服も変な見え方をしているでしょう?身体のひねり方も、いったいこんなにひねるものでしょうか?

 

ひとつひとつ挙げればきりがないほどです。みなさんがご自分で探してください。

 

では以上の「おかしな点」はラファエロの不注意でしょうか。もちろん違います。

 

「正しい」手の長さにしたらいったいどう見えるか。マドンナの手はおよそ子供の首辺りになります。首を絞めたようになるでしょう?

 

そうならないためにもっと前かがみになったらどうでしょうか。すると肝腎の顔が見えにくくなりますし、ゆったりとした空気もとらえきれない。

 

左の衣服のふくらみも、それがなければずいぶん貧弱な印象を与える。上体のひねりはやはり空間を確保するためです。現実そのままのひねりかただと、足はもっと前方に突き出されて前景が狭苦しくなります。

 

全体の印象のために画家は腕を長くするなどのデフォルメを施しているわけです。それを気づかせない、あくまで自然なものに見せるのが画家の勘というものです。あるいはテクニックのひとつだと言ってよい。

 

マドンナの腕をもう少しでも長くしたら、きっと誰でもオヤッと思ってしまい、ラファエロの失敗になる。画家は目の錯覚を利用するというのはこういうことです。それを目の知恵と呼んでも良いでしょう。

 

 

 

 

 

ラファエロ・マドンナ
ラファエロ・マドンナ

もうひとつ例を出します。フェルメールの「デルフトの小径」という絵です。なんの不思議もない街角の光景です。

 

でも描かれた3人の人物を見ると、遠近がほとんどありません。毎日同じ光景が繰り返される、今日も明日もずっと、人間はそうやって生きている、そんな一種の諦め、哀しみ、無常観をフェルメールの作品から感じるのですが、人物だけ「間違った」遠近法で描かれているのは、その印象を強めるためではないか、と私は思っています。

 

少なくとも画家の不注意ではない以上、何らかの意図があるわけです。

 

画家はそうやって私たちがぼんやりとしか見ないものを見える形にしようと腕を振るっているのです。それを「目の知恵」と呼んだまでです。

 

フェルメール・デルフトの小路
フェルメール・デルフトの小路

音を扱う演奏という分野でも、似たような作業がなされているのです。そしてそれを可能にするのがテクニックです。テクニックについて語る際には以上述べたように「目の知恵」ならぬ「耳の知恵」を信じることからしか始まりません。