これは結論を先に言っておきます。猫はピアノを弾くことはできません。青柳いづみこさんが、猫でもピアノは弾けると揶揄されて、理論的には反論できず悔しい思いをしてきた、と書いていました。反論できないのでは困ります。もちろん、もっと困るのは、猫でも出せる音で演奏する人がいるということですが。この項ではその説明をしましょう。

 

昭和10年ころ「音楽界の迷信」という文章がありました。ピアノの先生たちがタッチで音が変わる、と指導するのがバカバカしい、という今日でも見られる理屈好きな人の文章です。この手の文章に演奏家は反論したいでしょうが、うまく捌けずに黙殺しているのが実情です。

 

猫にはピアノが弾けない、という説明は昭和10年代からの「難問」に間接的に答えることにもなるはずです。なお「音楽界の迷信」は青空文庫で無料でダウンロードできます。青空文庫のアプリもありますから、一度読んでみてください。

 

人の動作というものは一種の加速感を伴うのが多い。日常のさまざまな動作を思い出してみましょうか。どんな時に加速感を伴い、どんな時に伴わないか。

 

スポーツの得点シーンで選手がこぶしを握って叫びます。この時の身体的な感覚を加速感だと思ってください。予想しなかった嬉しい出来事で喜びを表す時や、何かに深く納得してうなずく時、場面場面で少しずつ差はありますが、一種の加速があり、大体その頂点で(もし声をあげるのならば)発声していることはたやすく確かめられるでしょう。

 

では動作はいつでも加速感を伴うかといえばそれも違う。「どっちだっていいよ」とか「やれやれ」と投げやりな気持ちの時とか、こちらもいくらでも実例を見つけることができます。

 

この一見てんでばらばらな状態をどうまとめたらよいでしょうか。加速感がある時の心は、何であるかはっきりとは分からないけれど一種の重量を感じていませんか?また、動きを感じていませんか?それに対して加速感を持たない時は重量を感じないか、仮にあっても動きを感じることがないと言えそうです。

 

この生き生きとした心の動きが演奏には不可欠です。わざわざ、本当にどうでも良いということを苦労して作曲する人はいませんね。ここでひとつ注意したいのは、生き生きとした心といっても、明るいものばかりを指しているのではありません。詩人の中原中也が「判で押したような明朗はやめなさい。明朗とは、悲しいときに悲しみたいだけ悲しむことでしょう」と歌ったのと同じことです(中也の詩のことばはここに挙げたとおりではありません)。

 

ピアノの演奏における加速の頂点は、自由落下した場合は鍵盤が棚板に衝突したときです。でも、ピアノの音は鍵盤が下がりきる前にもう鳴ってしまっています。これは前項「ピアノは打楽器か」でも触れました。では鍵盤が棚板にぶつかる地点に加速の頂点があるとどうなるのでしょうか。これについて2点説明します。

 

まず「下部雑音」と呼ばれる、木と木がぶつかりあう雑音が発生します。この下部雑音という言葉は調律師の世界では長いこと使われていたのですが、ピアノのテクニックについて書く熱意あるピアニスト、ピアノの先生たちの間でも使われることが増えてきています。ネットの中にはピアノの弾き方について調律師が書くものもあります。

 

むしろそちらの方が曖昧さはない。調律師の書いたものは単刀直入に「鍵盤を底まで押えなさい」というピアノの教育は、下部雑音を生むだけだから意味がない、してはならないことだと切り捨てます。この指摘は正しい。

 

その上でピアノという、いわば半分調理したような音を持つ楽器は、実際に間近で聴いて体験してはじめて判るものが多い、と改めて痛感する。そういった、ピアノ教育の現実に意見としては正当なことをいう筆者が、下部雑音がないピアニストとして挙げているのが私には下部雑音の典型的な例だと聞こえるからです。

 

もうひとつ、これもたいへん重要です。それは、加速の頂点に達する前に音が出ているということは、じっさいに弦を打つエネルギーはずいぶん小さなものになってしまうということです。

 

球技の世界では、ボールに差し込まれた、とかボールを迎えに行ってしまったとか言います。球技はあるところでピアノ演奏とたいへん似ています。野球を例にとりましょう。バッターは、ピッチャーが投げたボールと自分の振ったバットがぶつかる地点を予測してバットを振り始める。予測した点に向かって加速するわけですね。今は面のずれは除外して考えます。

 

振られたバットが加速の頂点に達したときにボールと当たればジャストミートです。ボールが予期したより遅いと、バットは加速の頂点から今度は減速していき、その途中でボールに当る。この現象をボールを迎えに行ってしまうと言い、ボテボテした力ない打球が飛ぶ。

 

反対に予想より速いボールが来ると、バットの加速が頂点に達するよりも前にボールと当たります。これを差し込まれると表現するのです。ボールはバックネットに向かって飛んだりする。そのときには鈍い音がします。ジャストミートしたときは乾いた、打楽器を思わせるような気持ち良い音がするのですが。ほんのわずかに加速の頂点より前に当るだけなのに、音ばかりではなく身体に響く衝撃もとても大きい。

 

ピアノに戻りましょう。棚板まで弾き込んだ場合、鍵盤の加速の頂点は棚板とぶつかった時点にあることは話しましたね。それより前にハンマーは弦を打ってしまっているのですから、野球の例での「差し込まれた」状態と同じことが起こるわけです。私たちが弦に伝えようとしたエネルギーよりもはるかに小さなエネルギーしか伝わっていない。

 

それに反して下部雑音はより大きくなります。いわゆる音が割れる、というのはこのような現象のもっとも極端なものです。さすがにこれは少し経験を積んだピアニストならば汚い音だと判断できます。

 

そこでそれぞれ、音が出る瞬間に腕を抜いたり、いろんな工夫を凝らして下部雑音を目立たないようにしているわけです。

 

でも、鍵盤の底をめがけてエネルギーが与えられている以上、雑音が減ることは「本当に音が出る」瞬間、つまりアフタータッチの時点でのエネルギーは同じように減ってしまっている。

 

つまり、ピアノの演奏は「本当に音が出る」瞬間、あるいは出る点といっても良いけれど、そこから上方へ逃げるような動作が基本になければなりません。アフタータッチを通り過ぎた後は球技でいうフォロースルーです。下部雑音をゼロにする必要はありません。アフタータッチの点にエネルギーを集中するだけで(つまり加速の頂点をアフタータッチの点に合わせようと努めるだけで)良い。

 

さて、猫はピアノを弾けないわけがお分かりでしょうか。猫は鍵盤にとび乗って、あとは落下の法則に従った加速を伴ったまま棚板まで落ちるのですね。落下の途中で跳び上がることは奇跡が起こってもできません。

 

猫が落ちて出る音をピアノの音だと言い募るのならば、ネズミが足を引っ掛けてもピツィカートができる、と言い返すしかありますまい。

 

ここでひとつ面白く思われる例を出しておきます。この項との関係というより、事項以降への導入のつもりです。ホテルのロビーなどで自動ピアノが置いてあります。このピアノの音を聞いたことがある人は、その音がとても弱々しいのを思い出せるでしょう。

 

もちろん、場所柄大音量で鳴らさないというのもあるでしょう。でも一番の理由はスイッチのオン、オフで鍵盤を動かすわけですから、打鍵と違って加速を伴っていないからではないでしょうか。だから抜ける音はないのに、変に弱々しい響きになるのではと思われます。