レガートはピアノという楽器でもっとも難しいとされています。

 

一般にある音から次の音へ移る際に、ちょっと重ねてあげるのだと説明されます。これ自体は間違っていない。

 

ただ、忘れてはならないのは、ピアノ演奏におけるレガートは他の楽器と同じようなレガートはあり得ない、ということです。

 

ブゾーニは一本指でレガートをできるように、と言いました。この言葉はピアノ演奏技術の根本を端的に表しています。

 

一本指では当然音と音の間に一瞬の空白が出来ます。しかしひとつの音から次の音へ腕でアーチをかけるようにすると、音と音の間に空白があるようには聴こえず、繋がったように聴こえます。(演奏というものが音響学とは大きく異なるところです)

 

ブゾーニの言葉はそういう意味です。つまり、ピアノ演奏においては腕を運ぶことが何より大切だということです。

 

言葉では分かりにくいと思いますから、動画例を出しておきます。

ショパンのノクターンのメロディーを3回、3指、親指、2指だけで弾きます。

https://www.youtube.com/watch?v=ToSoITaVGHs

 

一本指で弾くとご覧のように腕の運びは大きい。普通に弾けば当然外から見た動作は小さくなります。しかし音程を感じるということは根本的には一本指で弾く「距離感」を感じることです。歌手や管楽器を考えてください。

念のために5本指でも弾いておきましょう。腕の運びは当然小さくなりますが、1本指の時と基本的には同じであることに注目していただきたい。

 

「ピア二ストの脳を科学する」という本では色々な計測の結果、もっともレガートに聴こえる重なりの時間的長さを挙げていますが、いくら理想的に重ねたところで腕の運びが適切でなければ何の役にも立たないでしょう。

 

例として 平均律1巻のf-mollフーガを挙げます。

少し違うアングルでも挙げてみましょう。

 

このテーマはオルガン的だと言えば異論は出ないでしょう。でもそこで「理想的」重なり具合を求めても 残念ながらレガートには聞こえません。

 

CDesCHEFBと動く音の流れに沿って腕が運ばれていなければならないのです。

 

ここで少し脱線して自問してみましょう。ピアノの音はいったん弾かれてしまったらもうどうやっても変わらないではないか。それなのに腕を運ぶことがなぜそんなに大切なのか?

 

動作を止めてしまうと耳は減衰していく音に寄り添えなくなります。心と体・動作の関係は非常に面白い。「あ」の口の形で「う」を考えてみると一種の「あ」になっていることに気付くでしょう。

 

止まった動作で持続する音を感じることは困難です。音の持続を聴き続けるためにもどこかが動いていなければ不自然なのです。動いてあげれば済むのだから動くことです。ただし動きそのものをコントロールすることが大切なのはまったく同じ理由による。上の例を大きな身振りで弾いてみたら誰でも納得できるでしょう。無駄な動きを避けるというのは本来そうしたことを指します。