むかしから言われるピアノ演奏における箴言です。突くな、叩くな、圧すな。つかめ。これらはたいへん大切です。鍵盤をつかむように、とはたくさんの人が言われたことがあると思います。ただ、つかむというのはずいぶん誤解されていますから、ここで言及しておくのが良いでしょう。

 

普段の動作でつかむといえば、誰でも分かる動作ですが、ピアノ演奏でつかむというのは、タッチの瞬間の指先のベクトルのことです。指先を机の表面や鍵盤にしっかりつけて、指は動かないようにしながら手前に引っ張ってごらんなさい。爪に指先の肉がかぶさるような感じになりますね。この方向へ入力する、これをつかむと表現したので、基本は、指は音が出た後に入力した方向へ戻ります。日常の動作のように掌の方へ丸まってはいけません。なぜでしょうか?

 

スタッカートの方が解りやすいでしょうから、例として取り上げます。指先の軌跡をたどれば、丸めて取った場合、どうやっても鍵盤に触れる時間は長くなり、放すタイミングも大なり小なり他人任せになります。また、音を放す時点での指先はほとんど掌に近いところにあるわけですから、次の音のための予備動作のためにもうひと手間かけて動く必要があります。

 

たとえば熱いものに触れなければならない時、指は逃げる準備をして触りますね。手前に丸めて取るのは思ったより遅い動作だと、だれでも自然に知っているのです。あるいは誰かを軽くおどろかす動作を思い出してください。これも同じような方向に「逃げ」ます。

 

リストは「指は鍵盤をつかみ、手はピアノのふたの方へ」と言ったそうです。ついでに手をふたの方へ、を説明しておきます。これもピアノを弾く際の基本的な動作のひとつですが、あくまで形にとらわれないで理解してください。ここでも日常の所作を例に出すのが分かりやすいでしょう。

 

小さな子供がハサミを手に取ろうとしています。大急ぎでそれを取りあげようとするとき、手がハサミをつかむと同時に腕はやや前方に向かいながら上に取られる。それが一番素早い動きだと、これも自然に知っているのです。なお、ハサミを取り上げなければと判断した瞬間から、取り上げ、上方へ運ぶ一連の動作のどこにも直線的な要素はないことに注目していただきたい。

 

幾何学上では2点を結ぶ直線が最短距離ですけれど、人間の動作においては、直線的な運動はもっとも遅い。いわばいちばん遠いと見なせるのです 。